アフリカに兴味を持ったのは高校时代 父の仕事の関係で东京に引越して、それからずっと东京ですが、生まれは名古屋なんですよ。小さい顷は田舎で日に焼けて真っ黒になって游んでいました。高校に入ってからは、テニスばかり。3年生になって、「さすがにそろそろ勉强しなくちゃ」と思っていた顷、报道でルワンダの大虐杀を知ったんです。数ヶ月间に100万もの人々が虐杀された事実に大きなショックを受け、本屋さんで大枚をはたいてアフリカの専门书を买いました。开発に兴味を持ったり、国际机関で仕事をしてみたいと思い始めたのは、今思えばこのことがきっかけだったのだと思います。昨年ワシントン顿颁に引っ越す际、この本の间から、1994年のルワンダの虐杀、コンゴ民主共和国东部での难民大量発生に関する当时の新闻の切抜きが大量に出てきて、自分の原点はここにあると改めて実感しました。
大学では、「国际机関に进むためには语学をきちんとやらないと」という思いからフランス语を専攻しました。もともとは英语が好きだったんですが、英语をやっている人はいっぱいいるし、それだけではきっと駄目だろうなと思って。今になってみて、自分が仕事をしてきた西アフリカや中央アフリカの国々の公用语はフランス语だったので、その选択がすごく役立っていますね。语学は身を助ける、というのが自分のキャリアの中での実感です。
一般公司に就职后、フランスのグランゼコールへ
フランスに留学したのは、大学3年のとき。フランス語だけではなく、フランスの歴史や政治、それからちょうどEUの経済統合が進んでいた時期でもあったので、欧州連合(European Union:EU)の政治経済についても勉強しました。開発について関心はあったんですが、大学のときは開発について勉強していたわけではなく、将来そういった仕事につくことも含めて、意識はしつつも模索していた感じでしたね。
もともと大学院に行きたいという気持ちはあったのですが、新卒で就职するという机会は一度しかないですし、「日本の社会を経験しておくのも大事なこと」と思い、日本の都市银行に就职し、2年间外国為替売买の仕事をしていました。世界情势が金融や為替に与える影响を肌で感じられる兴味深い日々でしたが、やはりもともとの目标に戻るべし、と感じ2年で退职し、フランスの大学院に留学しました。
フランスのシステムは少し変わっていて、高等教育机関は「大学」と「グランゼコール(干部养成校)」に分かれているんです。私はこのグランゼコールに属するパリ政治学院に入ったのですが、官界、财政界、产业界などの色々な组织の干部育成を目的としていて、第一线ですぐにこなせる人材を养成することが主眼です。学问的な授业も面白かったけれど、スピーチや交渉など、実务をみっちり叩き込まれたことが、その后の仕事でも大変役に立ちました。卒业にも、论文を书くよりもインターンを経験することが重视されましたね。この学校では、开発分野で非常に先駆的な部分があり、特にアフリカ开発で活跃する実务者や研究者とのネットワークも充実していますし、フランスでも有数の研究机関をもっています。フランス语もスキルアップできますし、アフリカで开発の仕事をしたい人には最适な学校ではないでしょうか。もちろん、すごく厳しい学校で私も2年苦しみましたが、あの日々を乗り越えてこそ今があると思えます。
外务省での初めての「开発の仕事」 その学校にいる间に経済协力开発机构(翱贰颁顿)でインターンをして、开発経済で仕事をしていきたいと强く思ったんです。それで、日本に帰ったときに外务省のアフリカの政府开発援助(翱顿础)を扱っている部署の募集を见つけて応募し、そこで働くことになりました。
ちょうどその顷、1990年代の纷争时期を越え、復兴?开発にシフトし始める国がアフリカに多く出てくる中、世界的にもアフリカ开発に注目が集まっていました。アジア诸国で翱顿础卒业国が徐々に出てきている中、日本もアフリカに対する支援を増大させている时期だったので、仕事は非常にやりがいがありましたね。外交の最前线でアフリカ各国やドナー関係者とコミュニケーションをとりながらアフリカ支援に対する政策対话を进めていく过程で、実践を多く积んでいきました。具体的には、东京の外务省で、担当していた中部?西部アフリカ诸国に対する国别?地域别援助计画を策定したり、アフリカ各国首脳を集めアフリカ开発についての政策的议论を行う东京アフリカ开発会议(罢滨颁础顿)プロセスや、当时アフリカ开発が频繁に主要议题となっていた骋8サミットなどをフォローしていました。その合间を缝って、日本が具体的にどんな支援をしていくかを相手国政府と协议しに、シエラレオネやガーナ、ブルンジなどアフリカ各国に出张していましたが、ハイレベル政策対话を何度もこなし、コミュニケーションスキルはすごくアップしたと思います。
仕事はすごく面白くて、上司や周りの人间関係にもとても恵まれていたのですが、政策を打ち出すような立场にいるのに「自分には决定的に现场経験が欠けている」という思いがどこかで常にあったんです。日本からの出张を繰り返しているだけでは、クライアントが本当にどういうことを必要としているのかがわからない、と痛切に感じていた顷に、国际协力机构(闯滨颁础)からオファーをいただいて、有难く引き受けることにしました。
现地调査中に起こった交通事故 闯滨颁础での担当は、今までの仕事でも関わりが深かったコンゴ民主共和国、ブルンジ、ルワンダなど、アフリカの大湖(たいこ)地域での復兴开発と平和构筑支援。最初の1年ちょっとは东京本部にいて、远隔でオペレーションをしたり、出张で现地に出向き、これから日本がどのような支援ができるのか现地のニーズを调査し、案件形成をする仕事をしていました。ただ、この地域は纷争が终わってまだ日が浅く、特にコンゴ民主共和国は世界最大规模の国际平和维持部队(笔碍翱)が展开する不安定な状态。2007年から2008年にかけてのこの时期、暂定政権からの过渡期にあり、独立以来初の民主选挙の选挙结果を巡って、市中で銃撃戦が频発していました。そんな合间を缝って现地调査に出かけていき、大変な交通事故にあったんです。実际一人の方がその事故で亡くなりましたし、私も头部に外伤を受けて本当に死ぬかと思うぐらいの大事故でした。治疗のために髪の毛を丸坊主にもさせられたんですよ。
そんな地に戻ることへの恐怖もありましたが、今でもとても尊敬している绪方贞子理事长から直接言叶をかけていただいて、非常に励まされました。そして「自分にできることがあって、それが求められていることであれば喜んでやるべきだろうな」と思い、その后アフリカ现地に飞んだんです。
现地でつかんだ「人と人とのつながり」
コンゴ民主共和国には2年半いたんですが、もう本当に大変でした。现地で电気も通っていない建物を所长と2人で见つけ、契约するところから始まって、インターネットを通し、椅子や机を买い…と、惯れない场所で自分たちで何でもやらなくてはいけないという状况で。でもそんな环境だったからこそ、すごく周囲に助けられましたね。最初の3か月间は立ち上げに无我梦中でしたが、落ち着いてきた顷からは役割分担をして、自分はナンバー2としてドナー会合への代表出席や相手国政府とプログラム策定、政治?治安?社会経済状况分析などを担当していました。断続的にですが1991年以降、17~18年间ぐらい纷争が続いていて、あまりに不安定だったので、长期的な开発援助というものはまったく存在していなかったんです。ですから、ドナーもみなバラバラに各国が支援を考えるのではなく、ひとつの协调戦略を取ろう、ということで频繁に会合が开かれていたんです。国际社会の一员として、何ができるかを一绪に考える席に日本代表という立场で参加するということは、非常に大きな経験でした。
现地では治安が悪くて気軽に出歩くこともできないので、职场と住居が同じ建物の中にあるという、究极の职住接近生活を送っていたんです(笑)。起きたら3阶に上がって仕事をして、2阶に下りてご饭を食べて寝るというような。そんな厳しい环境で仕事をしていたので、人と人のつながりは非常に强いものがありました。そこで得られたネットワークは、未だに宝物ですね。自分の私生活を犠牲にしてまで仕事することが求められているなかで、情热を持って仕事をしている尊敬できる友人や同僚に多くめぐり合い、本当に大きな刺激を受けました。
ネットワークが可能にした世银への入行 2年半现地にいて、现场でのドナーとのつきあいを通して各国の立场や见方もわかってくると、二国间援助とはまた违う立场から支援をするということも面白いんじゃないか、という思いが生まれてきました。実は、既に闯滨颁础での次のポジションも决まっていて、东京に帰る予定だったんです。でも「まだ东京に帰りたくない」「もう少し前线で仕事をする立场でいたい」という気持ちでいた时に、ドナー会合で频繁に颜を合わせていた世界银行の方に「もう帰国しちゃうの?それなら世银に来なさい」と诱っていただいて。コンゴ民主共和国は非常に复雑な政情、安定しない东部情势、鉱物资源や世界第二位のコンゴ盆地を有する有数の天然资源国ながら、ガバナンスがひどく、経済が立ち行かない中、平和をより强固なものとするために復兴开発の成果が急がれていました。世银もオペレーションを拡大している时期ながら、现地の事情に精通したエコノミストが少ないという状况だったんですね。それならということで、お诱いに乗ることにしたんです。
现在のベースはワシントン顿颁本部ですが、出张が多くて6割くらいはコンゴ民主共和国にいます。今の仕事では、マクロ経済の分析をしたり、债务削减プロセスのフォローやガバナンス支援などを担当していますが、こうしたオペレーションを动かす际にも、今まで筑いてきたネットワークが非常に役立っています。これまではずっと日本人に囲まれ、日本という国の立场を背负って「开発」への贡献を通じて国益に还元することが求められてきましたが、世银では「开発」という究极の目标のために、色々な国の人たちと一绪にチームを组んで仕事をする、でもその中でもいかに个人として成果をあげなくてはいけないか、そのために组织内でも厳しい竞争力にさらされ、日々自己研钻が求められるという职?组织文化が今までの环境と一番大きく违う点ですね。
もうひとつ、世银に入っての変化といえば、ワシントン顿颁で久しぶりの先进国の暮らしを楽しんでいるということでしょうか。ごく普通に散歩に行けること、ポストに邮便物が配达されていることなどに、いちいち喜んでいます(笑)。日々仕事が忙しいので、リフレッシュできるヨガやテニス、ウォーキングの时间は大切にしていますね。ずっと闭锁的な环境にいたので、コンゴ民主共和国ではよく家に人を呼んで、しょっちゅうご饭を作ってパーティを开いていましが、やはり日本食はどこでも人気なので、みんな食べ物につられてすぐやってくる(笑)。この习惯は今でもネットワーキングのためにもとても大事にしています。おかげでお寿司なんかはかなり上手に作れるようになりました。
自分の「売り」を作る 高校や大学のときって、自分が何をやりたいのかをはっきりさせるのは难しいですよね。自分自身を振り返っても、その顷はやりたいことが漠然としていて明确ではありませんでした。でも、国际机関で働くためには、例えば私がアフリカに関心を持ってフランス语を勉强したように、ジェネラリストよりもスペシャリストであることが求められます。そのためには自分の売りがひとつでもふたつでもあることが重要。学生であるうちに、いかにスキルや语学を身につけるかが大事になってくるんじゃないでしょうか。
もうひとつ、若いうちからできることかなと思うのは、いろんな人と人间関係を作っていくということ。その関係を大事にするということは、自分の身を助けてくれるし、仕事の幅を広げてもくれます。开発のニーズはたくさんあるので、気概がある若い人たちにどんどん进出してきて欲しいですね。私も、今までは自分自身のことで精一杯でしたが、これからは少しずつ自分の体験を若い人々に向けて话したり、共有したりと、世の中に还元していくことを考えていきたいなと思っています。