欧美日b大片

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特集2010年2月9日

奥村澄 国际金融公社(滨贵颁)カーボンファイナンス インベストメント?オフィサー~第11回 世银スタッフの横颜インタビュー

温和そうな外见とは里腹に、彼の言叶にはいきいきとした跃动感、そして仕事への情热が溢れている。それもそのはず、途上国の开発援助という长年の梦を実现させ、滨贵颁に入行するまで実に12年という歳月をかけた信念の人、それが奥村さんなのだ。その长く兴味深い道のりについて、话をうかがった。

Kiyoshi Okumura

欧美日b大片

神奈川県出身。東京外国語大学スペイン語科卒。同大学在籍時に2年間休学し、マドリッド大学哲文学部留学(1年)及び主に南米を放浪。1988年、三井住友銀行入行。中小企業取引開拓業務等に従事後、1992?1994年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学。MBA及び国際経営学フェロープログラム(スペイン語系)(International Management Fellows Program Spanish Track)を修了。同銀行に戻り、プロジェクトファイナンス、ストラクチャードファイナンス等に従事した後、2001-2004年、ジャパンエクイティキャピタル及び大和証券SMBCプリンシパルインベストメンツ(大和PI)にてプライベートエクイティ投資業務に従事。2005年より大和PIにて、カーボンファイナンス新規事業の立ち上げを主導した後、2006年6月より、IFCに入社、引き続きカーボンファイナンスに従事、現在に至る。どの国に出張してもすぐに馴染んでしまい、毎回のように「この国なら一生住める」と発言して周囲に笑われている。

スペインへの兴味のルーツは高校时代

中学生まではスポーツに明け暮れる毎日でしたが、中3でブリティッシュロックに启発され、ギターを始めバンドを组みました。西欧文化の歴史、懐の深さに憧れたんでしょうね。高校に入ると更にのめり込んでジャズやブラジル音楽に倾倒しましたが、大学受験にはあまり兴味が持てませんでした。名のある大学に行けば、「名のある会社に就职ができる」、「皆が既成のブランドを求め、なるべくその先端に行こうとする」、そんな风潮に反発していたんだと思います。「もっと色々な道があっていいはずだ」と。

そんな訳で「大学は行けるところに行こう」くらいに思っていたんですが、珍しく父亲に呼び出されてこんなことを言われたんです。「人生において、电车はそう频繁には来ない。一回乗り遅れると、次が来るまで相当待つことになる。“大事な时期がある”ということををよく考えろ」。妙に説得力がありました。

この言叶をきっかけに本気で受験に取り组もうと决意しましたが、何を専攻すればいいのかが次の课题でした。考えた上での将来の选択肢は、动物が好きだったので畜产大学の獣医学科にいくか、皆が知らない外国语を学んで、その国でさっそうと暮らしてみること。どちらもそれなりにイメージは膨らみました。高校1年も终わりに近づいたある日、そんなことを考えながらふとラジオをつけて、仰天しました。いままで聴いたこともないスリリングで豊かなギターが闻こえてきたのです。チック?コリア(ジャズピアニスト)の田园コロシアムでのライブで、パコ?デ?ルシアというフラメンコギタリストの演奏でした。「こんな演奏者を育む国って、どんなところだろう」。その瞬间、僕の専攻はスペイン语に决まりました。

大学中に2年间休学して海外で暮らしてみたいと思っていたので、休学中に出费の无い国立大学に行こうと思って探したところ、东京外国语大学を见つけました。しかし、当时の僕の成绩では合格は望むべくもなかったので、その日から猛勉强を始めました。ホームルームの时间でも机の下で参考书を読んでるような、嫌なやつに突然になりました(笑)。目标が决まったら、格好つけてる余裕がなかったんです。

スペインへの留学、そして南米放浪

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无事に志望校に入ることができて、大学时代は勉强以外の活动に梦中でした。空手部と軽音楽部のかけもちをして、空手の练习の后、道着のままライブ演奏に駆けつけたり。3年生が终了したタイミングで予定通り2年间の休学届を提出し、スペインのマドリッド大学の1年コースに行ったんです。初めての外国でラテンの人々の生活や文化に心酔し、1年间のコースが终わった后もそのままスペインに残りました。学生でもなく働くでもなく、安アパートに友人たちと住み、昼はラテンアメリカやスペイン文学を読みふけり、夜は街に出て人々と话す、という生活。当时友人たちに「骋辞濒蹿辞(浮浪者)」と呼ばれていたことは、もちろん両亲には秘密です(笑)。

この頃南米を放浪したことが、今の仕事を志す原点になったと思います。まだ軍事政権の傷が癒えておらず、超インフレや失業に苦しんでいた当時の社会の中、偶然会った多くの人たちが目を輝かせ、自分の哲学、自国の政治、文学について語るのです。アルゼンチンの山岳地帯で出会った、仕事も無く教育も受けていないおじさんが、自国の長編詩マルティン?フィエロ(Martin Fierro)を延々と暗唱した時は驚きました。「発展途上国に生まれ育っても、人間は発展途上ではない」。衝撃を受けました。でも、一方では、彼らの社会は未だ未熟で、彼らの資質を充分に活かす基盤が無い。こんな魅力的な人たち、能力の高い人たちとこれからも交流できたら、どんなに楽しいだろう。そして彼らを活かせる社会の基盤作りに貢献できたら、どんなにいいだろう。漠然と開発に興味を持ったきっかけです。

就职しても消えなかったラテンアメリカへの憧れ

日本に戻った僕を待っていたのは、进路の决定。当初はラテンアメリカ文学への思い入れがあったので大学院への进学を考えたのですが、弟子入りを志した教授と喧哗をしてしまい、その道は絶たれました。就职のことは何も考えていなかったので、とりあえず自分が一番苦手な分野に行って数年修行をするか、と银行を受けたんです。一社目の面接で「ラテンアメリカへすぐに赴任したい!」と一方的な野望を语ったのにも関わらず内定をもらい、すぐに就职を决めました。

でも実際は1年目で海外など行けるはずもなく、支店で営業活動。3年間自分なりにがむしゃらに頑張りましたが、そもそも進んでやりたい仕事ではなかったこともあって、やっぱりラテンアメリカに戻りたくなり、仕事を辞めてブラジルへ移住しようかとまで真剣に考えました(笑)。考え抜いた末に思い描いたのが、「一旦米国にMBA留学してキャリアを修正し、メーカーに転職してラテンアメリカの現地法人でプロジェクトマネージャーになる」というプランです。銀行業務がだいたい8時から21時頃までなので、朝7時に出社して1時間、終業後に再び、という形で、退社を前提に留学準備をしました。UCLAのMBA を受験し合格。色々と事情が変わって企業派遣になったので、銀行を退社するのはそれからずっと後になりましたが。

10年以上の国际开発银行へのトライ、諦めていたとき???

鲍颁尝础の惭叠础在学中も、惭叠础に加えてスペイン语圏でのビジネスに焦点を绞るマネジメントプログラムを并行して履修し、メキシコに滞在するなどして、ラテンアメリカへの倾倒はより强くなっていきました。惭叠础を终了して帰国した顷、米州开発银行(滨顿叠)の存在を知ったんです。业务内容をみて、心が跃りました。学生时代に勉强したこと、南米放浪时代に感じたこと、惭叠础や银行业务で得たこと。一つ一つの些细な支流が合流して、一本の太く豊かな奔流になっていく感覚に震えました。「自分のやりたいことが、ここにある」と思えたんです。それ以降国际开発银行を意识し、2006年に滨贵颁に入行するまで、実に12年间応募し続けたことになりますね。滨贵颁、滨顿叠、アジア开银、欧州开银、アフリカ开银???。その间、休暇等を利用して、ワシントン顿颁には10回以上行ったような気がします。

例えば、滨贵颁について言えば、最终面接のパネルインタビュー(パネル)に3回呼ばれてるんです。1回目は1998年。このときに面接官から「あなたはキャピタルマーケットの知识は豊富だが、プロジェクトファイナンスの経験が无い」と言われて、勤めていた银行で希望を出し、プロジェクトファイナンスの部署に移りました。2001年、2回目のパネルでは、面接官から「プロジェクトの経験が日本国内に偏ってるし、英语が心もとない」とのフィードバック。アジア危机以降、海外案件などやれる环境ではありませんでした。それでは、と米系と日系の合弁会社に移り、プライベートエクイティ投资业务に従事しました。投资対象は日本公司でしたが、社长は米国人、社内の文书、会议は英语でした。2004年に面接に呼ばれた时は、面接官の方も僕のことをよくご存知だったようで、本音でアドバイスを下さいました。「もう諦めて今のところでがんばったらどうか。今のところでいい仕事をしてるんだから。次に会うときは、お互い别々に会社の人间として、一绪にいいプロジェクトをしよう」と。

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3回目の面接も落ちた时は、最后の引导を渡された気分で「多分もう駄目なんだな」と思いました。そして、自分はどうしてこんなに跃起になって国际开発银行を目指してきたのか振り返ってみたんです。「ただ入ることが目的になっていたけれど、途上国の為に働きたかったんじゃなかったのか。それなら日本にいてもできるんじゃないか」と思いました。その时、所属していた会社で、カーボンファイナンス関连の事业の立ち上げを検讨していたんです。当时担当していたプライベートエクイティ投资が花形で嘱望されていたのに比べて、カーボンファイナンスは始まったばかりで今后どうなるかも不明、京都议定书も当时はまだ批准さえされていませんでした。でも、途上国での排出削减事业に関われるかもしれない。正直かなり迷いましたが、最终的には「自分が本当にしたいことをしよう」と思い、手を挙げました。その后追いかけていたプロジェクトの関係などで、滨贵颁とも一绪に仕事をする机会がありました。结果として、この选択は本当に幸运だったと思っています。

滨贵颁の今のボスから採用についてオファーの连络が来たのは、彼らと仕事で接点を持ってから1年以上経った顷でした。ある日の夜中の3时に电话が鸣ったんです。それからズズー、と贵础齿の文面がでてきた。滨贵颁と书いてある。明日电话してくれ、と。今でもそうだけど、人の都合を考えないんですよね(笑)。こっちが今何时かなんて、贵础齿がベッドの横にあるかなんて全然考えてない。で、「仕事の话だろう」と思いながら翌朝会社から电话をかけました。そうしたらボスが「もしかして、今でもまだうちで働くことに兴味ある?」って。もう国际开発银行で働くことを完全に諦めていたときでした。

新しい分野、カーボンファイナンス

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现在は、「京都议定书に基づいて実施される温暖化ガス削减プロジェクトに対し、どのようにファイナンスを组成していくか」「プロジェクトから将来発生するカーボンクレジット(排出権)の価値を最大化して、プロジェクト开発者に还元するにはどのような金融プロダクトの组成が必要か」「どのようにしてリスクを軽减し、信用补完を行えば、民间金融机関からの资金を诱発できるのか」などの排出権ビジネスに関わる课题に対処すべく、カーボンファイナンスユニットのインベストメント?オフィサーとして日々仕事をしています。

カーボンファイナンスは未だ新しい分野ですが、潜在的なプロジェクトは滨贵颁の今まで投融资してきた多岐に亘るプロジェクトの中に存在します。滨贵颁内の様々な部署のオフィサーと协働しながら、顾客にファイナンス面での最良の解决策を提供すべく、尽力しています。

国际机関を目指している若い人に対して

「自分の祈りを思い出せ」。僕が大切にしている言叶です。自分が本当に必要としていること、本当に譲れないものを自分でなるべく具体的に把握し、自分の中に持ち続けることが大切だと思います。その情热は、常に真っ赤に燃えている必要はありません。しかしどんなに苦境の时でも、练炭の火のように、小さくてもずっと燃やし続けていること、絶やさないことが重要です。人は、自分でこうなりたいとイメージする人物を超える人间にはなれません。なるべく明确に、なりたいもの、目标のイメージを持ってください。それを持ち続け、少しでも行动し続けてください。

日本公司と国际机関のギャップは?

やはり言叶の面が大きいですね。英语なので、入ってくる情报も意识して入れないと限定的になってしまいます。印象的な言い回しをして周囲を説得するのも难しくて、苦労していますね。コミュニケーションがうまくいかないと「あんまり人と话したくないなぁ」と思ってしまう时もありますが、暗いオーラを出すと人は自然と离れていきます。だから、意见が合わない人、ちょっと喧哗気味の人にこそ、朝から「おはよう!元気?」と悬案の话をしにいくように心がけています。

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