欧美日b大片

Skip to Main Navigation
特集2009年10月5日

高橋正貴 世界銀行 持続可能な開発総局 エネルギー?交通?水局 上級電力エンジニア~第6回 世银スタッフの横颜インタビュー

とにかく元気である。「クタクタの背広を着た疲れたサラリーマン」というフレーズを払拭してくれる。世银オフィスから约20km离れたヴァージニア州マクリーンからほぼ毎日、自転车通勤をしているらしい。「自転车の事は何でも闻いてください」とおっしゃる高桥さん。そのエネルギーは自転车に留まる事なく、大学のトライアスロンチームに所属する长女摩璃亜さんに感化され、半年前から地元ワシントン顿颁で自らトライアスロンのトレーニングに励んでいるそうだ。インタビューの当日も、朝5时半から水泳を1时间こなし、自転车で出勤。体を动かし心身共に健康を保ちつつ、毎日エンジニアとしてエネルギーや环境テクノロジーに関する政策を取りまとめている。クリーン?エネルギーを目指し、环境工学等のエネルギー関连プロジェクトのテクニカルサポートも行っている。従事してきた国は中国、トルコ、ボツワナ、インド、ジャマイカ、レバノン、インドネシアなど数多い。

Masaki Takahashi

欧美日b大片

愛知県西尾市出身。1978年東京大学教養学部基礎科学科卒。1980年東京工業大学総合理工学部エネルギー科学専攻修了。同年電源開発(株)入社。1985-87年米国電力研究所(EPRI、パロアルト)へ派遣。1990-92年、マサチューセッツ工科大学(MIT)エネルギー環境政策センターに派遣研究員として滞在。1996年世界銀行に上級電力エンジニアとして入行、現在に至る。ヴァージニア州マクレーンに居住するも一年の100日ほどは不在。本年7月には次女と自転車で九州縦断後、屋久島にて皆既日食観測計画するも曇天にてできず、次回に期待。トライアスロントレーニングチーム”Team Z”に所属し、本年トライアスロンレースを7回完走。

兴味を追求、仕事に直结。日本の电源开発に贡献

现在働いている分野への情热は小学时代にさかのぼります。当时アインシュタインの伝记を読み感铭を受け、いつしかドラえもんの4次元ポケットが出来るんではないか、と梦见ていたんです。その兴味は失われる事なく、大学选びの段阶で何を勉强したいかはなんとなくイメージが出来ていました。大学は早稲田大学理工学部で数学を勉强するか、东京大学教养学部で物理を学ぶかで迷い、一度早稲田に入学したんですが、再受験をして东大へ进学しました。何故かと言うと、アインシュタインの相対性理论、それに続く量子力学をきちっと理解したかったから。勉强をしていくうちに、次第に纯粋理论から応用物理、さらにはエネルギー工学へと、実用に近い分野に兴味がシフトしていったんです。大学院への进学は迷わず决めて、东京工业大学で核融合の研究をしました。

大学院を卒业した后は电源开発株式会社(闯?笔翱奥贰搁)に就职しました。初めての勤务先は长崎県松岛の火力発电所でした。松岛は昭和56年(1981年)に电源开発松岛火力発电所が创业を开始して、输入された石炭による火力発电が行われるようになったんです。岛へは船で毎日通っていました。生まれてそれまでまったく海外に縁のない生活だったんですが、海の外という意味で松岛が始めての海外勤务でした(笑)。隠れキリシタンが住んでいた村落からさらに西彼杵半岛の奥に位置する松岛で唯一西欧の香りを保ち続けたのは、その船で罢颈尘别誌を购読していた事ですね。いやぁ、横文字で书かれたものを手にしていたら格好イイかなぁ、と思いましてね(笑)。特に学生时代に海外経験があったわけではなかったのですが、いつか外に出てみたい、という気持ちはあったと思います。

欧美日b大片
松岛には2年间勤务したのですが、発电所の建设から运転保守まですべてを学ぶことができました。化石燃料を燃焼させる火力発电所からは大気中に酸性雨の原因となる硫黄酸化物(厂辞虫)や窒素酸化物(狈翱虫)が排出されるんですが、燃料の产地によって、煤尘が少ないとか、狈翱虫/厂翱虫の排出量に违いがあることも学びました。オーストラリア、南アフリカ、中国、カナダ、そして米国と、色んな产地の事情を调べましたね。

自分の希望は根気良くアピール。行动力も大切

初めて海外で仕事をしたのは入社して5年目。当時の上司には嫌という程海外勤務希望をアピールしましたよ(苦笑)。見事願い叶って米国カリフォルニアにある電力研究所(Electric Power Research Institute)に派遣されました。ここではボイラー、タービン(蒸気で回転する原動機)などの石炭火力発電所の性能向上プロジェクト(Improved Coal-fired Power Plant)に貢献しました。

その後、数年日本へ戻りましたが、1990年、今度はは米国マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)にあるエネルギー?環境政策センター(Center for Energy and Environmental Policy Research)に客員研究員として派遣されました。ちょうど1992年にリオデジャネイロ(ブラジル)で地球サミットが開催されて、地球温暖化や気候変動が取り沙汰されたんですよ。これに伴い、将来的に石炭火力なのか、原子力なのか、それとも再生可能エネルギー(太陽?水力?風力など)がいいのか、など気候変動に関する科学、経済、政策に関わる研究をしました。

日本のみならず、世界基準のエネルギー政策を目指す

そんな仕事に従事して早16年程経った时、硫黄酸化物(厂翱虫)を减らす脱硫装置、窒素酸化物(狈翱虫)を减らす為の脱硝装置を使いそれぞれ10辫辫尘以下に抑える、という横浜市のプロジェクトを电源开発は手がけていました。日本におけるこの排烟の数値は非常に基準が厳しいもので、その分、日本の排烟処理技术はコストも非常に高いものでした。まさに経済用语でいう「限界効用逓减の法则」です。その时、これだけのコストをかけて日本一国の排出量を追及するよりも、その半分以下のコストで発展途上国に少しでも多くの装置を设置したらどんなに地球全体として贡献できるだろうか、と痛感したんです。この时、国际机関での仕事を初めて意识するようになりました。

日本へ帰国後は、国際エネルギー機関(IEA:International Energy Agency)との仕事に従事しました。IEAは石油産出国の利益を“守るため”に出来た石油輸出国機構(OPEC:Organization of the Petroleum Exporting Countries)に対抗して出来た機関で、エネルギーを“使う側”の機関なんです。いかに安定して且つコストを抑えてエネルギーが使えるか、を考える所。エネルギーを“使う側”=主に電力会社や製鉄会社からなる石炭産業諮問委員会として、IEAへのアドバイザリーを行っていました。

そんな中、先ほども话したように国际机関で働きたい、という希望はあったので、ワシントン顿颁にある电源开発のオフィスと相谈をして、世银の知人に履歴书を送ってもらいました。これが运よく今の仕事につながりました。

いざ国际机関へ。ポイントは自分を信じて自己アピールする事

欧美日b大片
ちょうど今始まりそうなプロジェクトがあるんですが、それはボツワナ共和国に発电所を作るものです。ボツワナは今まで隣国の南アフリカから电力を调达していたのですが、近年、南アフリカ国内の电力需要が増加した為(サッカーのワールドカップも予定していますし!)、隣国への电力输出をカットし始めたんです。そこでボツワナ政府が世界银行へ支援を依頼してきました。また南アフリカも自国の电力需要を贿うため、大规模な石炭火力発电所の融资を世界银行に依頼してきました。自分の専门性、知识、経験がこれらプロジェクトにも非常に役立ちそうですね。

アメリカやその他海外で自分の専门分野を追及し、仕事をしていく上で意识しないといけないのは、キャリアを考えてくれる人事部门がある日本と违って自分から积极的にキャリア形成をしていかなければならない、という事です。世银に入った当初は自分の専门性が谁にも知られていない中、自分の売り込み方がわからず、仕事をこなすことでいっぱいだったのを覚えています。フラストレーションも多く、精神的に弱ったこともありました。しかも、世银が融资する电力案件は、私が専门とする石炭を始めとする化石燃料による発电プロジェクトよりも、送电线、再生可能エネルギー、省エネプロジェクトにシフトしていきました。それこそ仕事の数自体减っていた时で、「どうやって家族を养っていけるのか」と精神的に疲労困惫でした。でも根気强く、少しづつプロジェクトに関わっていくうちに、そこから人脉が広がり、どんどん仕事につながっていき、今では仕事の依頼が多くて选んでいるほどです。忙しくても仕事の质は保ちたいので、量をこなすよりも、丁寧な仕事ができるよう泣く泣く断るプロジェクトもあります。この辺はプロとしてのプライドですね。

今の若者达へ

これからキャリアを形成している若い方々には、男女ともにもっと社会贡献や海外へ进出して活跃して欲しいですね。日本の会社はとても面倒见が良いけど、それ以上に得られるものがあるはず。困难も多いけど、やりがいもその分大きいんです!

欧美日b大片
インタビューが终わりに差し掛かっていた矢先、携帯が鸣り爱娘の摩璃亜さんがオフィスに着いたとの连络が入った。「よく娘と帰宅するんですよ。自転车を走らせる时、先行走者がいると风の抵抗がなくなって后ろの人は楽に走れるんです。」と説明をしてくれた。その笑颜は先ほどとは违い、自慢気な父の颜になっていた。

ブログ

    loader image

最新情报

    loader image